ところが、生活を維持する仕組みが崩れ始めているんですね。
そんな状況ですが、国内の政治の問題やら、マスコミの問題やら、下流食いの業界やら、
イスがどんどん減ってるのに、イスを取る速さばかりを研究してるイス取りゲームをして
そろそろ、大勢の人が安心して座れるイスを増やさなきゃいけないんじゃないの?とか思
それでは、逆に、旅行者の方から、積極的に、税関職員に、是非どうぞ自分の荷物を開けてください、と強く依頼したら、どのようになるのでしょうか。 本当はそのほうが確実で正直な態度だと思います。旅行者として、法令違反 (違法持込) をしてしまう危険がなく、法令順守の観点からは、そのほうが望ましいはずです。また、「申告するべきものがあるのかないのか」は旅行者よりも税関職員のほうが詳しいから、荷物検査してもらったほうが安心です。
このように、普通の人とは逆のことを正直にやってみると、以下のようになりました。もし、空港で、自分は正直だと思う人は、以下のように、素直に、自分では荷物についてよくわからないので、是非とも自分の荷物を検査するよう依頼してみてください。そうすると、次のようになったというレポート (実話) を書きます。
2010-09-29 - 登 大遊@筑波大学大学院コンピュータサイエンス専攻の SoftEther VPN 日記
いや、いまさらだけれど。最近の保険屋をいじめたエントリも気になったので。
結局、賢いけれどまだ「オコチャマ」なんだよね、これって。
例えばだ、ヨメが不機嫌の絶頂で、幼子に熱が出て、しかも上の子はヤンチャし放題の状態で、クタクタになって家族連れで税関を通過するときに、これと同じことができるなら、尊敬するけれど、そんなことはやらないよね、普通の大人なら。普通の大人の社会では、自分の優先順位も他人の優先順位もできる限り考慮しながら、「申告するべきものがあるのかないのか」を含めて、できる限り自分で判断するものだ。
脱税かどうか自分で精確に判断できないからといって専門家である税務署にすべての事業所が税務調査を「依頼」するという社会が狂気的であるように、犯罪を犯しているかどうか自分で精確に判断できないからといって専門家である警察に自分の捜査を「依頼」することが狂気的であるように、こういった行為は「サボタージュ」という言葉で言い表すんだよ、大人の世界では。
こういう賢い余裕があるオコチャマは、テレスコピックフィランソロピーでもなんでもいいから、善良な人たちをいじめるより、世界を救おうぜ。
(via kashino)
(via kashino)
確かに日本人は外国人を避ける傾向がある。いや外国人どころじゃない。同じ日本人相手ですら、自分たちの言葉が通じない相手を極端に嫌う傾向がある。
言葉が通じないというのは、日本語という問題だけではない。その仲間うちで使われてる用語や名詞を知らない相手をひどく馬鹿にしたり避けたりする。
有名企業の名前を知らないだとか、名刺の渡し方を知らないだとか。日本人が「失礼」と感じるもののうち少なからずが「知らない」ことによって発生する。だから反社会的な少年たちは決まって「知らねえ」という言葉を発する。
こういった常識が形成される背景には、単一的な文化がある。万人が共通して「知っているはず」の知識というのがたくさんある。「知らないと馬鹿にされる」知識が山程ある。
おそらく日本において学校で学んだ知識を重要視されない理由もそこだろう。教育は社会に出てから「社会常識」というものを叩き込まれることで始まる。
だがひとたび世界に目を向ければ、そんな常識などまったく通用しない。常識はそれぞれの社会と文化に育まれているからだ。
なぜか東京大学や京都大学を卒業した友人や知人が多いのだが、彼らの多くはその出身校をあまり話したがらない。それで相手の態度が変わってしまうのが嫌なんだそうだ。確かにそういう反応をする日本人は少なくない。
だがある東大出身の知人が話してくれたのだが、「東京大学なんて外国にいけばただの無名校」なんだそうだ。朝日新聞の記事によれば東京大学は世界ランキングで22位。確かに上位のハーバードやケンブリッジに比べたら相当下だ。ソースはどうもTHEというところらしい。
タイの最高学府であるチェラロンコン大学を多くの日本人が知らないのと一緒だろう。チェラ大だってランキング138位で慶応大学や早稲田大学より上だったりするのだが。
かようにそれぞれの文化圏、それぞれの社会で、もっと言えば個人によって、持ってる常識は違う。確かに常識を共有する相手との付き合いは楽だろうが、それに甘えて常識の違う相手を排除していい理由なんて無い。
そういったローカルな常識にとらわれていると、「世界常識」といえるようなものを見失っていく。世界にはたくさんの人がいて、彼らがお互いの 常識を越えてつきあってることを知らないのではないか。英語の価値を低く見積もる人は、ネイティブが誰一人いない場所で英語が話されてる現場を知らないの ではないか。世界に比べて日本の治安が本当にいいと思いこんでいるのではないか。
ローカルな常識をあまりに当然のものと思いこみすぎて、正しいものさしを失ってしまっているのではないか。
世界には日本の常識を知らない人々がたくさんいる。それは彼らがバカだからでも失礼だからでもない。一般的な日本人と違う常識を持ってるだけのことなのだ。そりゃもちろん教育度の差があることもあるけどさ。
日本はもう一度世界を相手に戦う必要がある。日本は技術立国として世界と戦って来た。いい製品を作って売って来た。しかしそれらはコモディティとなり、生産コストの安い国に流れていった。コモディティ化を始めたのはもちろん日本だった。
コモディティではない新しい何か。それはイノベーティブな新製品かもしれないし、文化的な何かかもしれない。それらを世界に広げる、日本そのもののグローバル化。日本から広がるグローバリゼーションこそが今求められている。
移民や英語は、そのための重要なツールとなるであろう。
口蹄疫の流行が拡大した事について
「俺の行動にどんな不備も無い」と主張する農林水産大臣は論外ですが
「ほかの国での流行でも数十万頭単位の殺処分なので普通」という形で
意図的に状況について誤認誘導しようとする人間が出ています。
「プロ詐欺師」の用いる技術は「嘘をつく」では有りません
本質は「嘘はついていないが、都合の悪い真実には言及しない」です。
ですから詐欺師に対する的確な対処法は
「述べられていない残りの情報を明示し、その人間の信用を剥奪する」になります。
口蹄疫の殺処分数が他国で数十万頭に上る事が普通で
日本での処分数が異常なわけではないと主張する
「政府の対応には誤りはなかった」詐欺師に関しては、次の事実を
- 日本の農地面積と耕地面積で説明したように、日本では「農地==耕地」
つまり、広大な牧草地での放牧による多頭飼育型の畜産はごく少数
自分の主張に「真実の箔付け」を行う事を狙っていますが
実はこれは、情報を読み解くための前提条件である情報を欠落させれば、
農業に無縁の人達に容易に状況を誤認させられるという実例です。
事実としては「口蹄疫感染での被害規模はいろいろ」なのです。
それは「ウイルスの流行の様相が、それぞれの国の状況に依存する」結果です。
例えば、一番理解しやすい飼育規模の違い
ここでは地球環境の話として紹介した「アマゾン流域での熱帯雨林の損失」などには
衛星画像ではっきり視認できる規模の牧場の違法開設も関与しています。
またよく知られているように、オーストラリアやニュージーランドでは
広大な牧草地での人口の10倍を超える「牛+羊」飼育が常態です。
(牧草地の良好な管理の為には、その両者の混合飼育が望ましい)
(集団移動する羊は、「自走式草刈り機」と称される機能を提供している)
シープドックなどの「広大な牧場を駆け回って牛や羊を誘導する牧羊犬」は
そういった状況に対応する為に育種された犬種です
国内の畜産では様相が異なります。
なにしろ、耕作を休んでいる水田に栽培した牧草を食べさせる為に
車で牧舎から田んぼに牛を運んできた畜産農家が
「牛舎に餌を運ぶのに比べて、本当にこの環境は有りがたい」
というコメントを残すのですから。
日本の畜産では「肉牛の穀物肥育」しか可能ではない事は
食糧自給率の記事で「海外と日本の耕地の農業利用の規模・用途の比較」
という形で説明もしてあります。
そういう前提となる条件の違いを意図的に隠ぺいして誤認誘導する「詐欺師」は
行政実務の担当者でも実社会での責任ある地位にいるわけでもないようです。
個人的な感情の部分から入るなら
地域で病気が出ている時に「陣頭指揮をとるべき組合長が視察旅行を強行した」ら
殴りつけずに済ませる自信はありません。
この部分を誤認された人がいるようですが
行政機関の場合、そこで支出されるのは「公金(税金)」ですので
もちろん「責任者による決済」が必要とされます。
口蹄疫の場合には、その対処に大臣の決裁権限が必要とされる規模の
膨大な費用が発生します(今回は数百億円規模に膨れ上がりました)
迅速な支出の認可と他省庁との連携が必要とされる「災害」に際して
その陣頭指揮をとる責任者が行った「外遊」の目的は何でしょう?
「口蹄疫」対処の緊急度はとても高いものです。それは治療出来ません。
ですから「訪問先に予定されていた国々の農業大臣達がキャンセルに怒る事は無い」と明言できるのです。
例えば、埋設作業に駆り出されている自衛隊は「農林水産大臣」の管轄ではありません。
それは「日本の国の防衛」という任を担う総理大臣を筆頭指揮官とする別組織です。
また地域での対応には交通の制御をおこなう警察、消毒薬などを供給する薬品企業などとの連携も欠かせません。つまり自分が管轄する官庁だけでなく、政府全 体が対策に取り組む体制の構築が必要になるのです ・・・
「農林水産省の官僚達が対処していた」主張が馬鹿げているというのは、 そういった部分が疾病制御の一部でしかないからです。
農林水産省の「官僚」が、他省庁の権限に手を出す事は不可能です。
そういう部分は「閣内での同僚大臣への協力要請」という政治機能によって補完されてきました。
そういう理由で「陣頭指揮官の外遊」などもっての外なのです
「政府の他の人間が現地に行っていた」
決裁権限を持たない人間が行っても、迅速な対処は望めません。
「素人さま」では、「二番目ではだめなんですか?」になりかねないという意見もありますが
それでも「大臣」は「大臣」なのです
支出として多額の臨時予算を必要とする決裁を行えるのは
行政を担当する官僚達ではありません
今回の事態はマニュアルの想定を超えていない、というバカげた主張には
想定した人間の知識・技量を超えるマニュアルは存在しない
を差し上げます
「2009 H1N1インフルエンザ」感染事例でも想定を超える状況は存在しません
マニュアルが「状況に即していない・適切でない」場合には有害にすらなりうる
という程度も理解できない事実は、発言者のレベル認定には有益ですけれどね。
対策本部の立ち上げと迅速な対応の要請が野党側から行われたのは
「農林水産大臣様が外遊にお出かけになった連休の前」です。
民主党には外遊を止める「農業分野での高い見識を備えたまともな国会議員」 は誰もいなかったのでしょうか?
・・・ 大規模農業がおこなわれている北海道の農業分野のプロだった故中川議員を押しのけたのは、「違法な政治資金の疑惑が持たれている事件の刑事被告 人」になっている農業には無縁の民主党議員でしたね ・・・
もう現状では出来る事は限られています。
農林水産大臣が発表した措置は
実は被害の規模が2桁低かった時点で地元の畜産団体が要請していたものです。
政治家である農林水産大臣の俺様が素晴らしい決定を行った
という話ではありませんので、書き添えておきます。
求められていたのは「防疫」だったのですが
「早く病獣を処理できる人員を送って助けてください」
という「救援要請が出ていた非常事態」という認識が政府に無かったのが
今回の事例の敗因の一部なのでしょう。
種牛が失われた事実から理解できるように
ウイルスの感染力が前回より強かったらしい、というのも不運だったと思われます。
今となっては、「アフターケア部分」だけしか手当てできません。
現状で必要なのは「出来るだけの事をする」です。
長野のダムも沖縄と徳之島の米軍基地も不運でしたが
宮崎は地域の壊滅(畜産部分だけではもはやすまない)が不安視されるそうです。
そうなると「金を渡せばすむ」レベルではなくなります
・・・ 地元の国会議員達が「素人議員」でないといいですね ・・・
「次に苦しめられる地域を作らないように変えてゆく」は、より優先度が高いかもしれません。
「新型インフルエンザ」は、非常に事態の展開が早いです。
まず記事の日付を確かめ、必ず表紙で最新情報を見てくださいね。
想像してみてほしい——あなたは、日本で生まれ育った18歳のフランス人。東京・飯田橋にあるフランス人高校を卒業したばかりで、将来のことを 真剣に考えている(フリをしている)。自分の生きる道は、どちらの国にあるのか。フランスに渡る? それとも日本に残る? あなたが新聞を毎日読んでいる なら、答えは自明だろう。もちろんフランスだ。
フランスは「joie de vivre(人生を楽しむ)」国だ。国際的で、若々しくて、開放的。世界1の美女に世界1のファッションブランド、世界1の景色とワインがそろっている。
一方で、日本は「未来が約束された国」の座から転げ落ちてしまった。高齢化と景気低迷がものすごいスピードで進み、世界での存在感はすっかり失わ れている。
日本にとって、世界はどうでもいいらしい。政治もメディアも自己中心的で、NHKの7時のニュースは国内ニュースばかり。「グローバル企業」にし ても、組織の体質は正反対だ。英語を積極的に活用するような機運もほとんどない(TOEFLのスコアでみると、日本人のスピーキング力は鎖国同然の北朝鮮 にも及ばない)。
だが、こうしたマイナス面があるにも関わらず、18歳になるまで日本で暮らしたフランス人の多く(いや、ほとんどかもしれない)が選ぶのは、フラ ンスよりも日本だ。なぜか。彼らは日本社会の柔和さや格差の小ささ、日常生活の質の高さを知っているからだ。
日本とフランスの両方で税務署や郵便局を利用したり、郊外の電車に乗ってみれば、よく分かる。日本は清潔で効率が良く、マナーもいい。フランスの こうした場所は、不潔で効率が悪くて、係員は攻撃的だ。2つの国で同じ体験をした人なら、100%私の意見に賛成するだろう。
将来を考えても、多くの点で日本のほうが明るく見える。日本人は、今や長年務めた会社にさえ首を切られかねないと嘆くかもしれない。だがフランス では、中学や高校、大学を卒業しても仕事がない。この年齢層の失業率は15〜20%に上る。30代になるまで働かないという学生が大勢いる。
それにフランスの給料は安いし(企業が儲けているのは確かだが、給料は安い)、同じカネを出して買えるものは一般的に日本よりも少ない。
日本では、例えば川崎の安アパートでさえ、少なくとも清潔で安全だ。パリ郊外のアルジャントゥイユは違う。日本では700円で満足な食事ができ る。フランスは違う。日本では6歳の子供が1人で通学できる。フランスは違う。違うのだ。
■外国はバラ色ではなく「ジャングル」だ
それでも人々は外国に対し、現実とは異なるイメージを抱いているもの。日本人はフランスについて、見当違いな憧れを抱いている。
先日、パリ出身のかわいい女友達シルビーとコーヒーを飲んでいた時のこと。シルビーが、「パリジェンヌ気分を味わおう」というファッションビルの 巨大広告を見て笑い始めた。
「パリ気分を味わいたいって? そんなの簡単よ。教えてあげる。身ぎれいにするのをやめればいい。ホントのこと言うと、日本人の女の子の隣にいると 自分が汚く思えてくる。彼女たちって何度も何度も化粧を直すし、髪型だって最高。どんなパリジェンヌよりも女らしい。私のフランス人の彼氏は、日本人の女 の子たちに追い掛け回されてる。私はパリ気分よりも、ジャポネーゼの気分を味わいたいわ!」
日本の若者は自分の国の良さをちゃんと理解していない。日本の本当の素晴らしさとは、自動車やロボットではなく日常生活にひそむ英知だ。
だが日本と外国の両方で暮らしたことがなければ、このことに気付かない。ある意味で日本の生活は、素晴らし過ぎるのかもしれない。日本の若者も、 日本で暮らすフランス人の若者も、どこかの国の王様のような快適な生活に慣れ切っている。
外国に出れば、「ジャングル」が待ち受けているのだ。だからあえて言うが、若者はどうか世界に飛び出してほしい。ジャングルでのサバイバル法を学 ばなければ、日本はますます世界から浮いて孤立することになる。「素晴らしくて孤独な国」という道を選ぶというのであれば別だが。
日本では、大学の大人数講義で「質問はありますか?」と聞いて手をあげる学生はほとんどいません。たまに手をあげる学生がいると、好奇の目で見られます。
これは世界共通の現象ではなく、欧米では多くの学生が積極的に質問するのが普通です。
不思議なことに日本の小学校の授業では活発な質疑応答があり、グループ学習でも議論がもりあがりますが、中学校に入ると、ぴたっと誰も質問をしなくなります。
限られた経験からではありますが、欧米の学校では、むしろ小学校の方が静かで、中学校・高校と進むに従ってしっかり自分の意見を言う学生が増えるように思います。
だからといって日本の学生が考えていないわけではなく、その証拠にレポートを書かせると非常によく練られたものが提出されて舌を巻くことがあります。このような文化差はどちらが優れているというものではありませんが、協調学習やワークショップなどを考える上で、重要な条件としてあらわれてきます。
このような傾向がどこから由来しているのかについて、現在の研究で決定的な説明はありません。ここでは仮説レベルで検討してみたいと思います。
・社会に埋め込まれた文化的コード
日本社会においては、「目立つことや人と違うこと」を「恥ずかしいこと」であると解釈する文化的コードが存在しています。このことが歴史的にどう形成されてきたかは議論の余地がありますが、現状そうなっていることに疑義はありません。
・自己概念の発達と社会との関係性構築
中学校に変わるタイミングでの変化ということから、自己概念の発達が何らかの役割を果たしていることも推測できます。自己概念を形成する際には社会の中での自分の位置づけも意識せざるをえなくなりますので、その際にさきほどの文化的コードが内面化されるということも考えられます。
・学校教育の影響
ただ、自己概念の発達だけが要因なのであれば、中学校に入って「一気に」変わることの説明がつきません。発達には個人差があるので、全員が一斉に変化するのは不自然です。中学校に入る際に、複数の小学校から合流し、いったん人間関係がリセットされる際に、中学校独自の文化的コードが内面化されている可能性もあります。
仕事柄小学校や中学校の先生方に研修の機会を持つこともあるのですが、おもしろいのは先生も学生と同様の反応をすることです。40人を相手にして「質問はありますか?」と聞くと手があがることはほとんどないのですが、ワークショップ形式にして4人で話をしてもらうと、制止しても止まらないほど議論がもりあがります。
このようなことから、小学校6年間グループで話し合う経験から、小集団(特に4人)までのコミュニケーションスキルは発達するが、中学校・高等学校の6年間相互作用が活発でない授業を受けている間に、質問することは恥ずかしいという文化的コードが内面化された結果が大学の授業に現れているのではないかと考えています。
医師不足を解消するため、医学部定員の増加が必要とされているが、設備や教員の拡充がままならないため、すぐに定員を増やすことはできない。しかし、今すぐ、養成医師数を増やす方法がある。それは、医学部を廃止することである。
医師国家試験で問われる水準の医学知識は、高卒程度の基礎知識があれば、独学で習得可能である。学校教育は要らない。「国家試験は必要最小限度の知識であって、医学部の教育目標は、それよりも、ずっと上にある」と医学部教員は言うだろうが、実際には、医学部を卒業するのに必要なものは、国家試験程度の知識だけである。それだけが、医学部卒業者の品質保証となっている。
実技教育は、ほとんど行われていない。OSCEは落ちる人のいない試験である。臨床実習の実態は職場見学である。それは必要なことではあるが、医学部でなければできないということはない。つまり、医師国家試験があれば、医学部など必要ないのである。医師国家試験の受験資格を無制限とし、知識さえあれば、誰でも医師になれるようにすべきである。必要な実技は、卒後臨床研修により、合格後2年間で身につければよい。
一見、乱暴なようだが、2005年以前の司法試験は、まさに、このような制度で行われていた。旧司法試験は、学歴無制限の選抜試験だった。それで、特に問題はなかった。むしろ、学校教育を義務化した新司法試験の方が、はるかに合格者の達成水準が低い。独学でも、人は勉強をすることができるし、評価さえ適切に運用されるなら、学校教育は不要なのである。
インテリ vs 知識人
友人と、「あの人は(高学歴という意味で)インテリかも知れないけれど、intellectual ではないよね」ということで意見が一致したことがあります。このように、インテリと intellectual とは別物のはずです。
ところが、『ロングマン英和辞典』で intellectual を見ると、「知識人、インテリ」となっており、この「インテリ」を『三省堂国語辞典』で引くと、「知識階級(の人)」となっています。
しかし、「知識階級の人」と言われても、どうもピンと来ません。とりあえず教師など知識階級とされるのかも知れませんが、大学から小学校まで、頭脳労働かも知れないが、ただの勤め人というのが大半でしょう。特にフルタイムの教員だと、部活の世話やら会議などの外部からのしばりで、自分の時間どころではなく、したがってものを考える時間すらないのが普通だと思います。
一方、十把一絡げにして、知識階級に属するから知識人だという区分の仕方もずいぶんと乱暴で、役立ちそうもありません。
もともとは前回の記事で述べたとおり、特派員の翻訳上 intelligence の話が知性の話にすりかわっているのがおかしいということから出発したわけですが、英語で言う intellectual つまりは西洋の伝統的知識人がどういうものであるのかをちょっと確認しておこうという気になりました。(便宜上、ここでは intellectual = 知識人とします)
確認と言ったのは、実は、この方面の本を読んだことがあるからで、イギリスのケント大学の社会学者、Frank Furedi が書いた Where have all the intellectuals gone というものです。本そのものは、知識人/教養人とは何かを追求したものではなく、普遍的真理を追究するための知識というアプローチに代わって、その知識が何かの役に立つのかを判断基準とするアプローチが大学を初め、社会のあらゆる部面で普及しているのは問題だという内容です。ただ、その中で、当然の成り行きとして、知識人の輪郭を描いてくれているので役立ちます。
Furedi の見る所、知識人というのは、第一に職業ではなく、行動様式により、第二に自分を客観視する点で、第三に真理の追求が典型的だが、一定の価値・理想を追うということにおいて、他と違うのだとしています。
第一に職業とか学歴といった人に付帯する属性ではなく、どう行動するかが問題なので、教師であるとか、ホワイトカラーであるとか、つまり頭脳労働に携わっていれば知識人というものではありません。
この点は、スケジュールがあったり、営利追求等の組織に属することによる制約があっては、自由にものを考えるどころではありませんから、納得できます。
一方、行動が求められるというのは、単にぼんやり「こうだろうか、ああだろうか」と考えているようでは駄目で、社会の一員として社会に役立とうという意識を持ち、思考の結果として、社会に働きかけることが要求されると言います。
ですから、山などに引きこもって独り思索にふけるのは、Furedi の目には正しい、よき知識人とは映らないようです。
大所高所に立って、社会全体としてこうあるべきだ、あああるべきだと考え、それを一般に明らかにして、働きかけねばならないのです。
第二に、自分を客観視できるというのは、
An intellectual is a person whose mind watches itself.
と、アルベール・カミュが言ったことと重なります。
第三に知識人をそうでない者と識別する指標は価値の追究です。どこのラーメンが一番うまいかといった話ではなく、何しろ西洋における intellectualism の源流は18世紀の啓蒙主義に求められますから、一定の理念や真理の追究に打ち込んでいないようでは、知識人と呼んでもらえません。
ただ、この場合の真理と言うのは、私の理解では宗教の人たちが言うような超越的存在だとか絶対的真理といったものではなく、the art of thinking ということである logic により到達ないし認識可能なことの実相と言うのか、要するに actuality ( = thing as it is known)です。だからこそ、この Logic は、thing as it is symbolized を司る Grammar ならびに thing as it is communicated ともどもリベラルアーツ教育の柱とされてきたのだと解されます。
なんであれ、以上を要するに知識人の要件は、(1)社会的な目的意識をもって行動し、(2)自己を客観視する能力があり、(3)ものごとのあるべき姿を捉えようとする、の三つにまとめることができます。
ここで果たしてわが身が知識人と言えるのかという大それたことを考えるに、第一に、日本人の英語力を押し上げたいという気持ちをもって辞書や本を書いていますから、要件の一は満たせます。第二も、まだ勉強が足りんなとか、まだ一流とは言えんなとわかっていますから、大丈夫そうです。第三は、うーん、微妙です。なぜ日本人の英語力は水準以下なのか、国際的に通用しないのかという問題意識から、あれこれと本を読み、日本人の英語力の「実相」を解明しようとは努めています。しかし、本来、Logic が 「概念を操作して判断に至り、その判断を三段論法で組み立てていき、その連鎖により真理に至る」 (Sister Miriam Joseph の The Trivium: The liberal arts of Logic, Grammar and Rhetoricによる定義)であることからすると、そのレベルのはるか下の方をうろうろしています。
結論は、もうちょっとで知識人だけれど、惜しいかな、まだということです。